張子房塾

経営者の皆様を対象に経営塾を開設しました。今までの経験を中小零細企業経営者支援に全力投球します。

歴史の真実 点と線 その7

あの有名な万里の長城は何故造られたのでしょうか。それは異民族の侵入を防御するための軍事施設だったのです。これは誰でも知っている事実です。それではこの万里の長城はどこから始まっているのでしょうか。これが分かると中国の実態が理解出来ます。

当時の万里の長城の始まりは現在の河北省の「山海関」から始まっています。何を言いたいかと言えばこの位置には旧満州国は入っていません。満州国漢民族から見れば外敵の異民族になります。満州人の国家は17世紀頃「後金」と言われ、後の「清」です。この清が万里の長城を越えて漢民族を支配した王朝が「清王朝」で、辛亥革命で「皇帝溥儀」が紫禁城を去るまで続きました。

満州は元々満州人の土地であったのです。中国から見れば異民族の土地です。そこを南下政策のロシアが武力で実効支配していたのですが日露戦争で勝利した日本が権益を守る意味合いから満州出兵となったのです。
当時の満州は治安の真空地帯で地方軍閥張作霖と息子の張学良が満州を私物化し,治安の悪化を招いていました。この状態を一気に解決したのが「柳条湖事件」で、満州事変の発端となったものです。軍事力で地方軍閥を駆逐した日本は、溥儀の故国である満州を建国したいという強い要望があり、これが日本の利害と一致したため国を上げで支援したのです。この結果、満州国は大発展を遂げ治安も回復され,人口が爆発的に増加した事実を知って欲しいものです。満州国は歴史的事実から見て中国の一部でもないという事実は知っておくべきでしょう。

大東亜戦争の敗戦により日本の支援を失った満州国は,中国の軍事力で一挙に支配されてしまったのです。今日、満州人の悲劇を知る人は皆無と言えるでしょう。今、中国国内で少数民族の反乱が頻発し過激化していることはご存知でしょう。少数民族の末路を満州族の消滅で経験している人たちは,人種消滅の悲劇を絶対味わってはならないという強い信念で行動しているのです。それほど中国の少数民族政策が過酷であることの証左です。

戦後、社会党の代表団が毛沢東に会見し,例によって土下座外交日中戦争を謝罪したところ、毛沢東から意外な言葉を聞き代表団はビックリ仰天した史実がございます。それは、共産中国が経済的に立ち上がれたのは、日本が満州国に無傷で残してくれた重化学工業があったからだと感謝されたのです。当時の指導者は良く本質を理解していたのです。
満州国に軍事拠点を持った日本は、やがて中華民国と対峙する事になります。