法治国家における推定無罪の原則とは
「法治国家」とは、国家における全ての決定や判断は、国家が定めた法律に基づいて行うことであり、「推定無罪」とは、何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される。と言う立証責任の問題と、疑わしきは罰せず、と言う裁判官側からの問題で、表裏一体となっていることはご存じでしょう。(ウキペディアより)
この大原則を踏まえ、民主党幹事長小沢不正疑惑と言われる問題を考えてみたい。
政治資金規正法違反で3人の秘書が逮捕されたことで、小沢幹事長の悪徳政治家の実態らしきものが毎日マスコミ報道され、あたかも悪代官のごとき印象を国民に植え付けてきた。この結果、二度の事情聴取にもかかわらず不起訴になると、今度は説明責任を果たしていないと大合唱。この煽りで、日本経済再生の要である予算編成すらそっちのけで、金権政治の追求に明け暮れている国会審議を見るに付け、真から国民の為の政治家がいるのか疑わしい限りである。あたかも国民総検察官の様相を呈し、日本の進路が危機に陥っていることを冷静に判断しなければならない。そのときの判断基準が「法治国家における推定無罪の原則」なのである。
何故、日本国民は異様なほど一方に偏った判断をしてしまうのか。
小室直樹の「日本国民に告ぐ」の著書の中で山本七平の「空気の研究」の一文を紹介している。曰く、日本社会では諸外国の社会と違って、ことの「良し、悪し」は既に客観的に決まっているのではない。直接的人間関係に漲る「空気」によって決まるのである。日本は「空気」支配の国である。空気こそが日本教の教義である。空気に反したことをしただけで許すべからざる「犯罪」とされるのである。と。
また、伊沢元彦「言霊の国」解体新書の中で、日本は言霊が支配する国で、言ったことがそのまま起きる。少なくても起きやすくなると言う思想です。要するに理論的予測と、希望的観測のうち、希望的観測が中心となってしまい、こうなって欲しいと言うことと、こうなるだろうと言うことは区別すべきなのに、日本人はしばしばこれを混同してしまうのです。と。
要するに、この原則を上手に使うと、ある目的を持った人たちのマインドコントロールに乗りやすく、誘導されやすい体質を持っていると言うことです。
小沢幹事長は推定無罪なのです。検察が不起訴にしたものを有罪だと言いつのる人たちの意図を見抜くべきでしょう。
あなたはマインドコントロールされたいですか?
この大原則を踏まえ、民主党幹事長小沢不正疑惑と言われる問題を考えてみたい。
政治資金規正法違反で3人の秘書が逮捕されたことで、小沢幹事長の悪徳政治家の実態らしきものが毎日マスコミ報道され、あたかも悪代官のごとき印象を国民に植え付けてきた。この結果、二度の事情聴取にもかかわらず不起訴になると、今度は説明責任を果たしていないと大合唱。この煽りで、日本経済再生の要である予算編成すらそっちのけで、金権政治の追求に明け暮れている国会審議を見るに付け、真から国民の為の政治家がいるのか疑わしい限りである。あたかも国民総検察官の様相を呈し、日本の進路が危機に陥っていることを冷静に判断しなければならない。そのときの判断基準が「法治国家における推定無罪の原則」なのである。
何故、日本国民は異様なほど一方に偏った判断をしてしまうのか。
小室直樹の「日本国民に告ぐ」の著書の中で山本七平の「空気の研究」の一文を紹介している。曰く、日本社会では諸外国の社会と違って、ことの「良し、悪し」は既に客観的に決まっているのではない。直接的人間関係に漲る「空気」によって決まるのである。日本は「空気」支配の国である。空気こそが日本教の教義である。空気に反したことをしただけで許すべからざる「犯罪」とされるのである。と。
また、伊沢元彦「言霊の国」解体新書の中で、日本は言霊が支配する国で、言ったことがそのまま起きる。少なくても起きやすくなると言う思想です。要するに理論的予測と、希望的観測のうち、希望的観測が中心となってしまい、こうなって欲しいと言うことと、こうなるだろうと言うことは区別すべきなのに、日本人はしばしばこれを混同してしまうのです。と。
要するに、この原則を上手に使うと、ある目的を持った人たちのマインドコントロールに乗りやすく、誘導されやすい体質を持っていると言うことです。
小沢幹事長は推定無罪なのです。検察が不起訴にしたものを有罪だと言いつのる人たちの意図を見抜くべきでしょう。
あなたはマインドコントロールされたいですか?